終戦後のまだ瓦礫の残焼け野原の中、製陶設備がほとんど残っていなかった工場に僅かに残った茶碗やカップ。それを見て、「いつの時代にも変わらずにある食卓の幸せ」を願い、日本が失いかけた「家族の団欒」「上質で幸せな時間」を取り戻すことを夢見て、残されたわずかな設備と技術者、そして全従業員が一丸となって窯業にゆかりのある鳴海という地に「鳴海製陶所」として新たに創業させました。
しかし、まだ十分な原料も手に入らない時代。最初の試験窯から出てきた飯茶碗は、お世辞にも“白い磁器”とは言えないものでした。しかしその経験はのちに、より白く、良質な磁器を皆さまに届けたいという、強い想いとなりました。当時の競合他社が、タイルや衛生陶器といった比較的工業規格化しやすい分野に舵を切る中、あえて技術レベルが高く、難しい洋食器のディナーウェアに挑んだのは「いいものを作り続ければ、いつかそれを豊かに活かす、幸せな時代が訪れる。」という信念の上での行動でした。